気づきについて <目覚め 覚醒>
ヨガアサナをしているときに感じてくださいと何回も言う。
動きが癖にならないように、今の動きが楽で気持ちが良くて軽やかかどうかをみるためだ。
癖になると感じなくなる。変な動きでも、力が入る動きでも、つらいことでも癖になると感じなくなる。 そしていつか、身体のほうに損傷に見舞われる。肩こり腰痛の原因がこの辺だと思う。姿勢が悪ければつらいはずなのにつらさを感じなくなるのだ。歩き方も座る立つもそうだろう。
ヨガアサナでも同じように形ができるからといって力づくで、ただ形だけを追求するといつか身体を痛めるのではないかと思う。いつもこの動きはこれでいいのか気持ちいいのかと確認していきたい。

お経の般若心経にも感じるということや動きを作るということに触れているところがある。
般若心経はよく知られたお経である。私の授業の時にたまに読むことがある。このお経は「本当の知恵の教え」を説いている。「色即是空 空即是色」は有名な句である。このお経だけからでも深い仏教の説法をうかがい知ることができるくらいノウハウが凝縮している。「とらわれない」という「無」や「空」が数多くちりばめられている。小ざかしく理屈をつけても所詮あらゆるものが「無」だと断言しているところが特色である。

教室ではその「無」を取り除いたところに知識として意味があるだろうとヨガアサナを作る時の参考にしている。
私たちは五感で見たり聞いたりして(受)何かを思い(想像)、行動に移し(行)良し悪しを判別(識)する。「受想行識」である。「受想行識」は「五蘊」の中で心の働きのことを言う。五蘊は「受想行識」と「色=肉体」を言う。そして「五蘊皆空」の五蘊は以下のことを言っているのであろう。

写真やモデルを見てアサナを作ろうとする。どんな感じだろう。気もちいいなぁと想いながらやってみる。そして満足に浸る。ここでもしっかり感じなさい、そしてしっかり想像しなさいと言っている。こんなふうに「受想行識」を解釈している。

この感じて、想像することで大きな飛躍が生まれ迷いから目覚めるのだ。お釈迦様がそうであったように。お釈迦様のことを「釈迦牟尼仏陀」と言う。仏陀は「目覚めた人」、目覚めた偉大な釈迦族の聖者といった意味である。目覚めるは気づきにもつながる。お釈迦さんは宇宙の真理に目覚めた人である。、われわれは日常の小さな出来事の中で仕事や人間関係などにさまざまな気づきや目覚めを行っているはずだ。

気づきの教えを徹底して指導されたヨガ指導者が大正・昭和期の哲人「中村天風師」であろう。以下のような誦句(しょうく)集で人の有るべき姿を示した。そして病や人生の困苦から人々を救い、その教えを受けた人たちは大きな能力開発の力を得たという。師は現在のようなヨガアサナの指導をされていなかったそうだ。ヨガを学んで自らの境地の天風哲学を打ち立てた。以下に考え方が大事かを物語っている。
 
  あとひとつ気づきや目覚めの大切さを伝える文章がある。訳本なので理解しにくい、そのままの文章である。何とか読解してほしい。
 覚醒した意識を磨き上げよう  (心をひらく体のレッスン?フェルデンクライスの自己開発法)
 われわれの本能は覚醒した意識の場合と同じく、遺伝的なものとして授けられたとするなら覚醒した意識を磨き上げるのが闘争よりも攻撃よりも望ましいはずである。 覚醒した意識は、人間の進化における最高の段階でありそれらが完全なものになった場合、からだの働きに対する調和のとれた支配に保持することが出来る。  強い個人は情念も強く、その能力も生命力もやはり強いのである。そのような原動力を抑圧することは、必ず潜在能力を弱めることになる。  覚醒した意識を拡大することによってこそ、われわれ人間は混乱から抜け出す道を見いだし、自らのエネルギーを解放して、創造的な仕事に立ち向かうことができるであろう。覚醒した人を仏陀という。

(能力ある人は闘争や攻撃も強い。それらを押さえることで他の能力も抑えられてしまう。覚醒した意識を高めることで闘争能力を創造的な仕事に立ち向かうことができるはずだ。こんなことをいっている。)
(2005-12-02)


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