般若心経について(2)
般若とは「智恵」のことで心経は「教え」のこと。接頭語で摩訶(まかふしぎのまか)がついて「摩訶般若波羅密多心経」は<偉大なる智恵の真理を把握する肝心な教え>という意味である。これでも意味が、わからない。
智恵とは何ぞや、「真理の法(ダルマ)に目覚めること」。真理とは何ぞや、「真理とはありのままの姿」。ならば「智恵とはありのままの姿をありのままに見ることをいう」のか。
よくわかからんな。

それなら、仏教の智恵には「三法印」がある。
一、 諸行無常 あらゆるものが常に変化していく。
二、 諸法無我 あらゆるものが互いに深く関連している。
三、 涅槃寂静 心の安らぎこそが真の幸せであり、実相の世界(宇宙の心)を感じ取れることである。(仮相の世界は苦難や迷い。)
これはわかりやすい。1.諸行無常は「おごれる人も久しからず」の平家物語の一節だ。これはわかる。2.諸法無我はこの世に一人、ひとつの種で生きている生物なんていない、また人生であっても経験が役に立ったり、縁遠くても近いことがよくあることだ。後ろ指刺されぬように気をつけなさい、と言われるのもこのことだ。3.心の安らぎをまず得ることが大事なことなんだよと言っている。

ところが「心の安らぎ」なんてなかなか大変で実現不可能だということも私たちは良く知っている。仏教でも「四苦八苦」の言葉を使って、生きていいるうちに必ず出会う「苦」を説明している。
始めの四苦は「生・老・病・死」それぞれが苦しいものだ。そしてまだまだ苦しいものがある。
それは「愛別離苦」という愛する人と別れなければなんらい苦しみだ。喪に服するというのも精神的ダメージを癒す期間なのだろう。最近は「ペットロス」という現象(愛するペットを失なう寂しさの障害)さえある。何も亡くなることだけでない。引き裂かれることもそうである。
「怨憎会苦」(おんぞうえく・怨んで憎んでも別れられない苦しみ)これも今の社会にあると思う。少しは束縛が少なくなって「サイナラ!」が言いやすくなっているが。
「求不得苦」(ぐふとっく・求めても得られない苦しみ)この世は欲が渦巻いている。次から次へと欲が沸いてくる、不思議な社会だ。それらは犯罪となって新聞紙上にあふれかえっている。
五蘊盛苦(ごうんじょうく・身も心も苦しみの原因を抱えている)この私たちのこと、あなたも、わたしも、あのひともみんなそうなんですよ。

お釈迦さんは「人生は苦なり」生老病死の四苦八苦から逃れることはできないとおっしゃった。凡人はそりゃかなわん。どうしたらいいと聞いたら「智恵」を身につけるように修行しろと「八正道」を説かれたのである。すなわち「とらわれないよう」に訓練することである。


ところでヨガのポーズのときも痛い、苦しい、イヤだといった場面によく出くわす。
この自分の体、どうなってるの。他の人は楽にできているのに自分は拷問状態であると。指導しているときは皆さんが「痛い痛い」と言うと「そう、痛いんです。そうそうそれでいいのです。楽しいね、うれしいね。」と。「大丈夫です。無理しないでね」と。なにかかなり矛盾したことを言っている。

この状態は「三法印」に似ている。捕らわれていると悲鳴だが、心静かにしていると諸行無常だから、感覚は必ず変化する。そして体のいろいろなところを動かしてつながりを作るとますます楽になっていく。その先は「涅槃寂静」で気持ちのいい姿勢が完成する。

大体、ヨガって、いやなことをする練習である。なまった体を鍛えて、たるんだ根性をたたきなおす。そうすると気分が良くなるのだ。体って不思議である。

そして痛いけど、苦しいけどリラックスって大切である。人間は賢い。死ぬまで生きる。悩んで悩んでリラックスしよう。何かいいことたくさんある。今までもたくさんあった。これからもたくさんあるだろう。
(2006-02-10)


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