瞑想について


授業の中で瞑想の時間をとるようしている。レッスンの最後のほう、5分くらいだが、授業全体が瞑想で終わると締まるような気がする。普段は二人組でマッサージなどをするのだが、この二人組をやめて瞑想に切り替えている。

他のスタッフは今まで通り二人組でストレッチやマッサージなどをしている。学院の立場としてスタッフに指導方針を出さないことにしている。このほうが自己責任の中でいろいろ面白い授業ができる。当然、指導研究会などの中では考え方や、名称の統一はしているが、組み立て方はスタッフそれぞれで個性があって面白い。受講生に対するヨガ指導もスタッフが楽しくないとその楽しさが伝わらない。工夫こそが楽しさをもたらすのだ。

瞑想の話に戻す。
瞑想は坐って座禅瞑想をする。ある程度の時間をかけて脳の緊張をほぐしていき、普段の生活でおおいかぶさっている煩悩をなくすことで、奥底にある生きる力に目覚めることになる。精神療法では「あるがまま」、「いまここに」という森田療法やゲシュタルト療法につながっている。また禅宗から生まれた茶道や華道が発達したのも戦国時代という時代を生き抜くという心の平安を求めてなのだろう。

瞑想の考えは集中とリラックスだ。それはヨガではポーズを作ることで、体の意識、感覚の集中をリラックスに代えている。多少の痛みは出てくる。しかしポ−ズの負荷は自分で決めるので、その刺激を受け入れて「痛い」「苦しい」「逃れたい」という煩悩をなくすようにする。これが多大に脳や体によろこばしい知らせをもたらす。

ところでヨガアサナのことをポーズといっているが、ポーズは「姿勢」(pose)という意味だが、ビデオデッキやテープレコーダーにもポーズ(pause)がある。これは「休息、中断」という意味だ。ヨガで言うポーズはこちらのポーズの方がいいのではないかと思う。「休息」のほうが瞑想を類推しやすい。ヨガポーズは一定の姿勢を保って、ただ「休んでいる」状態のことで、すなわちリラックスして姿勢を保っていることだ。ところが実際は初心者がやってみると心も体も悲鳴を上げてただ形だけを作っている。
それでも「くつろぎのポーズ」というのがあってこれだけは悲鳴を上げなくても出来るアサナなのでここで本来の瞑想体験が出来るようだ。

しかしやっぱり瞑想は座禅瞑想が本筋だ。静かに座ることで体も心も落ち着く。
瞑想の目的は無心だそうだが、そんなことは期待しないで、それよりも一心に集中する練習をする。教室では数に意識をおいて数える数息法を5分間する。心の中でゆっくりと呼吸の数を数える。
「ひとーーつーー」と長い呼吸で10まで数える。しかしなかなか最後まで数えられない。他のことが心に浮かぶ。いくつまで数えてたか忘れてしまう。そんな時、思い出そうとせず又1から始める。10までいったらまた1から始める。
この瞑想の感想を聞いてみると一回目の10まではいくが、次の10がいろいろなことが浮かんでまったく数を数えることを忘れてしまうと言う。でも頭がすっきりして気持ちいいらしい。練習で集中力もつくと思う。10分間を30の数を数えるとかなりゆっくりした深い呼吸法の練習にもなる。

一休さんというテレビ漫画がある。「あわてない、あわてない、一休み、一休み」といって知恵を出すしぐさは教室以外でもやってみたいものだ。彼は実在していて高僧で詩・画の大家であり、酒を愛し、遊廓に出入りするかなりの破戒僧だったそうだ。これも「あわてない、あわてない」であったのだろう。
(2002-09-01)

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