イメージについて
イメージは実際の行動よりも雑音が少なく鮮明な感覚が得られる。
ことの発端はスタッフと遅い昼食をとっていたとき。スタッフの弁当に入っているレモンをおいしそうに彼女は食べた。それを見ると自分の口の中に強烈な酸っぱさが沸いてきたのだ。別に珍しい風景ではない。酸っぱいだろうと言うと「いや甘い」と言う。確かにレモンの味は酸っぱいとは限らない。甘いのもあれば苦い酸っぱさもある。でも見ている自分の中には鮮明な酸っぱさがあった。

別のイメージの話
映画やドラマを見ているときに「別れ・出会い」にどうして涙を誘うのだろう。それらは自分にとって架空の状況なのだ。演出のうまさに違いないが涙が周りに恥ずかしいくらいあふれてくる。自分が登場人物になりきって感情移入が強いのだろうか。でも長い人生を振り返ってみると自分にも映画のような劇的なものはないにしろ「別れ・出会い」はあるし誰にでもあるだろう。しかしそんなに涙を見せた覚えはない。実体験は人の目があったり、思いが複雑であったりという雑音が多くてそこまで悲しみ喜びの感覚を感じない。それとも自省が強いなのだろうか。
リラクセーションで海辺の状況をイメージしながら行う瞑想がある。
「真っ白な砂浜、青い海、心地よい太陽の暖かさ、気持ちの良い浜風」こういうフレーズだけでリラックスするであろう。いかにもそこにいるような気がする。寒い冬のストーブをつけた部屋にいても何となくほんわかと温かくなる。ストーブの熱が太陽に変わり、温風が浜風に変わるのだ。でも実際にその地に行ったときにはどうだろう。雑音が多くて砂浜は汚い、人が多すぎる、暑い、うるさいといった具合になかなかリラクセーションにほど遠くなってしまう。

ヨガの時もポーズの気持ちの良いイメージを描くのだが「痛い、硬い、できない」が邪魔してなかなか思い通りの動きを作れず、リラックスからほど遠くなる。実体験は雑音が多いので鮮明な感覚が得られにくいは前に書いた。
それでは雑音にならないくらいの動きを繰り返し行うと、神経が純粋に活動するだろう。動きの主体である筋肉は収縮することだけでその強弱をコントロールしているのは運動神経だ。運動神経が雑音になるのだから筋肉を動かさないくらい筋肉から感覚神経を拾って脳神経で処理をさせる、これがイメージである。よってポーズや動きのイメージではできるだけ動かさないのが基本である。
我々の活動の真価は精神活動だ。思いが動きを作り言葉、手足の活動となって実社会の行動になっていく。大事な話をするときにはその人なりの性格や状況を前もってリハーサルするではないか。間違った思い込みで行動に支障が出てくるときもある。
活動の主体は筋肉であり非常に雑音の多い存在だ。緊張したときなど思い通りに話をさせてくれないし、体も動いてくれない。思いつきで失敗することもある。しっかりとしたイメージが出来上がったときに筋肉は素直になる。ヨガのポーズの時、思いつきのようなすぐ「やる、する」をやめてイメージを膨らましてから行うと効果的だと思う。
(2005-01-03)


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