より深いリラクセーションのために
もう一人の自分
-より深いリラクセーションのために-もうひとつの瞑想法

どうしていいか分からないときがある。いわゆる悩む、困る、考え抜く状態である。そしてあるときひらめく。こんな簡単なことをどうして気がつかなかったのだろうと。神の啓示のようにひらめいたときのうれしさは格別だ。

禅寺に訪れることがあった。ポスターに同行二人とあった。それはどんなときでも人は仏さんと一緒という意味だそうだ。死人のことではない、仏陀のことである。
四国巡礼の「お遍路さん」にも霊場をお参りする菅笠(すげがさ)に同行二人と書いてあるそうだ。こちらは弘法大師と同行の意味である。一人で生きていくことは大変なことでそんなときこころのよりどころになる人がいるとどんなに心強いものであろう。

「フォーカシング」というワークショップがある。前に参加したときの資料によると自己成長や自己治癒のための考え方であり、方法とある。これは自分の本音を体の無意識の知恵を借りて聞こうとする方法である。自分自身が何をしたらいいのか、何を要求しているのかということを聞き取ろうとするワークショップである。直接的なひらめきはないけどなにか体が訴えかけている。解決に向けて納得し、決断にいたるプロセスを身体感覚(フェルトセンス)を通して傾聴するのである。

人には意識層と無意識層がある。現実の生活はほとんど意識層から記憶をたぐっている。しかし人生のあらゆる経験のほとんどは用事がなくなったら無意識層に移され今の記憶にはない。それは癖、習慣などに変わってしまう。そして自分で気がつかないことがたくさんあってもある場面になるとはっきり思い出すことがある。無意識からヒョコッと出てくるのだ。その記憶は思いだけでなく、匂いや音などを伴うこともある。より現実的でついこの間の事がらのように思い出す。でも普段はほとんど忘れてしまっていて思い出そうとしても思い出せないことばかりだ。

人の記憶は膨大である。年を経れば経るほど、経験をつめばつむほど記憶は積み重なっていく。自分の経験も人の話も、読んだ新聞雑記書物もテレビラジオの中身も数十年間の内容を全部記憶に積まれていく。そして忘れていく。幸いかなほとんど覚えていない。時として必要なことまで忘れてしまう。これは今回のテーマからはずしておく。とにかく覚えているのだが思い出さないだけ。

このように考えると無意識の自分はまるで他人のようだ。この自分である他人を自分のものにすると心強い味方が増えることになる。非常に気まぐれな味方であるが使い方のテクニックを知ると必要なときに必要なことが手に入る。その方法がはじめにいくつか例を出した内容であろう。

しかしこの「同行二人」のような内容のご利益はもっと神秘的かもしれない。神仏の仕業かもしれない。か弱い自分自身より大きな神仏のほうが信じやすい。それなら神仏が自分に宿っていると考えてみても良い。記憶だけがすべてと考えないで霊として考えるとやっぱり自分の無意識の記憶になる。ヨガの標語にも「生命即神」とある。生命は記憶を手がかりにあらゆる可能性を秘めているのだ。

自己の中のもう一人の自分を呼び出す方法、それは瞑想しなさいということである。リラックスしなさい。安心できる状態を自分に作り、そして自分自身に聞いてみることである。問題意識をもってどうしたらよいかということを問いかけることである。条件が調ったときに答えが出されるのである。そのために待つことも大事。熟成することも大事である。もう一人の自分に導かれて危機から脱したという話はたくさんある。この方法は心理療法でも良く使われている方法である。自分で気がつかない無意識を意識化して自己治癒力の働きが癒しへと導く。それが瞑想でありリラクセーションである。

最後にひらめきは妄想とは異なる。瞑想に妄想はつきものである。思い込みの激しい人は妄想になりやすいので注意が必要だ。
(2005-04-14)


homeへ